音楽は絵画のように~第3回「あの天使の表情の訳」~

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~第3回「あの天使の表情の訳」~

『メールラ:子守歌による宗教的カンツォネッタ「さあ、お眠りなさい」』
(アルバム『ラメント』所収)
マリアンネ・ベアーテ・キーラント(メゾソプラノ)
オスロ・サークルズ
LAWO LWC1226 輸入盤

 音楽と絵画を関連付けてCDをご紹介する企画「音楽は絵画のように」。 第3回目は有名な絵画の「天使たち」の表情の理由のお話。このテーマでご紹介する音楽は、17世紀イタリアの作曲家メールラの子守歌による宗教カンツォネッタ「さあ、お眠りなさい」です。

『レオナルド・ダ・ヴィンチ:「モナ・リザ」』
ルーヴル美術館

 今回は絵画の話からいたしましょう。誰もが知っている有名な絵画でも、実は明確に描かれた目的が分からない作品、なにが描かれているかさえ判明していない作品は数多くあります。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。誰もが知っていると断言しても過言ではないほどの超有名絵画ですが、実はいまだに誰を描いた絵画なのか、はっきりしていないのです。『モナ・リザ」と呼ばれる理由は、ジョルジョ・ヴァザーリが著した『画家・彫刻家・建築家列伝』において、レオナルド・ダ・ヴィンチが、「フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザの肖像画制作の依頼を受けた」とされているからで、名前のリザに貴婦人を意味するモナを付けて「モナ・リザ」としているのです。ヴァザーリはあたかもレオナルド自身から聞いたような著述をしていますが、彼自身レオナルド・ダ・ヴィンチとは面識はなく、この著作の出版はレオナルドの死後30年以上経過してからのものでした。そこから、ヴァザーリの記述は伝聞情報で正確性を欠くものではないかとされ、『モナ・リザ』のモデルについてさまざまな説が語られてきました。中にはレオナルドの自画像ではないかという説もあります。実際にレオナルドの自画像と合成させた画像があり、顔の輪郭やパーツが驚くほど一致するのですが、これはレオナルドが自ら理想とする人体比率に基づいているので一致しているだけだという反論もあります。それゆえに『モナ・リザ』は、レオナルドの理想像とも言われます。実際に、レオナルドは死ぬまで「モナ・リザ」を手元に置き、常に手を加え続けたとされています。現在では、さまざまな証拠が発見・提示され、ヴァザーリが示した当初の通り「リザ・デル・ジョコンド」の肖像画説が説得力があるものになってきていますが、完全な立証には至っていないのもまた事実です。そうした謎めいた雰囲気が『モナ・リザ』の魅力になっていることは間違いないですね。

『サンドロ・ボッティチェリ︰「プリマヴェーラ(春)」』
フィレンツェ、ウフィッツィ美術館

 同じような例をいくつか見ていきましょう。これはボッテチェッリの『春』。これも『モナ・リザ』と並ぶほど有名な作品ですね。日本ではイタリア料理店で複製画が飾られることもあるようですから、日本でイタリアの雰囲気を醸し出すのにぴったりな絵画なのでしょう。この『春』は「世界で最も議論の的になる絵画」としても知られています。現在もこの『春』が何を描いているのか、決着が付いていないのです。単純に「春」という季節のアレゴリー(寓意)であるとか、「プラトン的愛」を示したものであるとか、ボッテチェッリと同時代の詩人アンジェロ・ポリツィアーノのある詩を絵画化したものだとか、とにかくさまざまな説が唱えられています。そうした説をここでご紹介するには全くスペースが足りないので、概説書や専門書にお任せしますが、確かに『春』の画面をよく見てみると、登場人物たちがどのような関係性を持っているのかどうにも不可解ですよね。画面の主役である中央奥に描かれた女性は主役であるにも関わらず、他の人物と関係しているような仕草がありません。その上にいる目隠しされたクピドは誰を射ようとしているのでしょうか。右側に描かれた西風の神ゼフィーロに抱えられた女性は口から草がはみ出ていますが、その隣の着飾った女性と関係があるのでしょうか。この着飾った女性の服をよく見ると草木や花が鮮やかに描かれています。彼女が「春」の擬人像なのでしょうか。一番左の右手を天に向けている男性像はメルクリウス(マーキュリー)ですが、いったい何をしているのでしょうか。サークルを形成する3人の女性像は三美神とされますが、彼女たちが示すものはいったいなんなのでしょうか。このように、とにかく謎だらけの絵画なのですが、不思議と惹きつけられるものがありますよね。もしかするとボッテチェッリが、この絵画の鑑賞者たちが各々の見方を持ち、議論できるように、いろいろな解釈が可能な画面構成にしたのかもしれませんね。

『フェルメール:「真珠の耳飾りの少女」』
オランダ、マウリッツハイス美術館

 さらにもう1作見てみましょう。これは有名なフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』。来日したこともありますので、現地に行かなくても実際に目にされた方も多いでしょう。とにかく日常のさまざまな場面で用いられることが多く、あまりにも見慣れているせいか、実物を初めて見ると、その意外なほどの小ささに驚きます。私は、画面サイズのデータは知られていたり、実物大の画集があったりしてその大きさについてはあらかじめ知る余地があったにもかかわらず、実物を見た最初の印象は「小さい」でした。ただし、その絵画の魅力は小ささで減じるものではなく、逆にこの小ささでその圧倒的な存在感と美しさを持つことに大いに感銘を受けました。さてこの少女はいったい誰なのでしょう。一般的な正解は「誰でもない」なのです。この絵画は「トローニー」とされています。「トローニー」とはオランダ語で「頭」や「顔」を意味する言葉で、不特定の人物の頭部や胸から上の像を描いたものです。もとはたくさんの人物が描かれる大画面の作品の登場人物一人一人の習作として描かれていたそうですが、それ自身に価値が生じ、当時のオランダでは「トローニー」として数多くの作品が描かれました。誰か特定の人の肖像画ではなく、不特定な人物を描いた作品なのです。ですが、たとえ『真珠の耳飾りの少女』がトローニーであったとしても、この絵画のモデルは存在するのではないでしょうか。そんなことからさまざまなモデル説が出ています。例えば、フェルメールの娘であるマーリア。ただしこの絵画が描かれたとされる時期と彼女の年齢には齟齬があります。また妻カタリーナを描いたという説。ただし妻はフェルメールよりも年上ですので、これが描かれたときすでに30代半ば。ここにも年齢との齟齬があります。若い日を想像して描いた?というのも無理があるでしょう。中には、モデルがフェルメール家の小間使いだったとして小説としているものもあります。これはスカーレット・ヨハンソンが少女役を演じ、映画にもなっています。これだけモデル論争を呼ぶのは、あまりにも思わせ振りな仕草や表情、そして真珠の耳飾りや青いターバンといった珍しい持ち物が印象的だからでしょう。私自身も「トローニー」に見せかけた特定のだれかの肖像画だと考えています。

『ラファエッロ:「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」』
アルテ・マイスター絵画館

 さて、いよいよ本題です。この絵画は現在ではドレスデンにあるアルテ・マイスター絵画館所蔵の絵画、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び称されるルネサンス時代の巨匠ラファエッロの『システィーナの聖母』です。『サン・シストの聖母』と呼ばれることもあります。この名前の由来は、サン・シスト修道院の依頼によって描かれた作品だからです。彼の名前やその名を冠した修道院からの依頼のためサン・シスト、また「シクストゥスの」を意味する「システィーナ」とされています。ちなみに右側に描かれている女性は聖バルバラです。画面上部の左右にはカーテンが描かれ、あたかも今カーテンが開き、聖母子が登場したように描かれています。美しい聖母子の驚いたような表情、鮮やかな色彩も印象的です。優美な画面がまさにラファエッロといった作品ですが、この絵画で最も有名な部分は、画面下部に描かれた二人の天使でしょう。ですがここでは、一度、この二人の天使から目を離して、聖母子の背景をよく見てみると、無数の赤ちゃんの頭部が薄い雲のように描かれていることが分かります。これはすべて天使、しかも最上位の天使セラフィムたちなのです。彼らがここに描かれているということは、その場が天であることを示しています。下部の二人の天使はセラフィムの代表か、それよりも下位の天使だと思われますが、彼らも天上の存在であるのです。

『ラファエッロ:「システィーナの聖母」の下部、二人の天使』

 この下部の天使だけをトリミングした画像を載せてみましたが、『システィーナの聖母』を知らなくても、この天使を知っているという方も多いのではないでしょうか。お菓子のパッケージに使われたり、広告に使われたりと、さまざまな場面で見かけることも多いですし、実際にとても愛らしいので、見覚えのある方も多いでしょう。彼らのかわいらしさの理由は、その表情と仕草だと思います。なんだか、ふてくされたような表情で、一人は手に顎を載せて、もう一人は組んだ腕に顎を乗せて、聖母子を見上げています。こうした表情こそがこの天使の魅力であり、さまざまな媒体に使われる理由だとは思いますが、ではなぜ二人の天使はこの仕草にこの表情なのでしょうか。聖母マリアと幼子イエスが登場した場面なのです。喜ばしい雰囲気のはずですよね。それこそ、ラッパを吹きならす天使たちが描かれていたって不思議はありません。そんな晴れやかな喜ばしくあるべき雰囲気なのに、天使たちはこの表情。この矛盾はなんなのでしょうか。
 これを見事に説明している文章があります。ダニエル・アラスという美術史家が書いた「好きな絵」(『モナリザの秘密 絵画をめぐる25章』(白水社)に収録)というエッセイです。天使たちのあーあという表情にはきちんとした理由があったのです。この著作に基づいて書いてみます。アラスは、『システィーナの聖母』は「生きた神が顕現する瞬間をきわめて正確に提示」した絵画だというのです。つまり、この絵画は神秘の幕が開けられ、神が人の姿を得て(受肉)、人の世に現れた瞬間を描き出しているのです。前述のように、聖母子の背景には無数のセラフィムが描かれ、ここが天上世界であることが示されています。ですからこれは神の子イエスが、これから人の世に降り立つまさにその瞬間が描かれているものなのです。
 では、イエスやマリアの驚いたような表情は突然、幕が開いたからだけなのでしょうか。実はそうではなく、幕が開かれた瞬間は、御子イエスの人の世での運命が決定付けられてしまった瞬間でもあるのです。イエスは、人間の世に生まれたときから、人類の罪をすべて背負い、被り、その贖罪のため、ほとんどの人類に理解されず、嘲笑され、愚弄され、拷問され、最もむごたらしい方法で処刑されるという悲惨すぎる運命が決められてしまうのです。そうすることで、人類の罪を被り、人類を救うことができるのです。ですから、イエスがこの世に現れた瞬間、イエスは悲惨な死が決定付けられているのです。もちろん、母親であるマリアはそれを理解しています。人の世に降臨していない状態ならば、イエスはその運命を背負わなくていいのですが、降臨してしまったからには、人の世に顕現したからには、もうイエスの運命は決定してしまいます。だからこそ、イエスとマリアはこの表情であるのです。マリアはイエスがこれから体験する過酷すぎる出来事を憂いているのです。もちろんイエスも自分の運命を知っています。受け入れているのでしょうが、さすがにこの瞬間だけは驚きや恐れがあったのではないか、ラファエッロはそう表現しているかのようです。
こうして考えると下部の天使たちの表情も分かりますよね。「せっかく僕たちが神秘の幕をかけて人の世から隠していたのに。幕が開いて、イエス様は人の世に出ちゃったよ。過酷な運命が決まっちゃった。あー、もう知らない」という気持ちが素直に表れているのです。

『ムリーリョ:「小鳥のいる聖家族」』
マドリッド、プラド美術館

 『システィーナの聖母』と同じように、一見、そうは見えなくても「受難」が暗示されていると思われる絵画をもう1点ご紹介します。17世紀スペインの画家ムリーリョの『小鳥のいる聖家族』です。ムリーリョは市井の人々をモデルにしたような親しみやすい聖母子像や幼いヨハネ像などで人気を博した画家で、現在でもファンが多いので、お好きな方も多いでしょう。この『小鳥のいる聖家族』は、幼いイエス、マリア、そして父親であるヨセフが描かれています。特徴的なのはヨセフです。一般的に、聖家族が描かれる場合、中心となるのはイエスとマリアの聖母子であり、ヨセフは画面の片隅など目立たないところに配置されています。しかもたいていの場合、ヨセフは禿頭で長いひげを持つかなり高齢の男性として描かれます。しかしこの絵画では、ヨセフは実にダンディな壮年男性として描かれています。しかも幼子イエスと積極的にかかわり、画面のほぼ中央に配置されています。一方マリアは画面左から父子を優しく見守っているかのような視線を投げかけています。イエス、マリア、ヨセフの聖なる家族を、理想的な一般家庭の日常のような様子で描いた絵画となっているのです。ムリーリョが一般的な人気を得るのも納得できるいい絵画ですね。聖家族がなんだか近しい存在に思えてきます。その辺りもこの絵画の狙いではあるのですが、ムリーリョの温かみのある優しい筆使いが画面を魅力的なものにしていることも事実です。
 では、この絵画、どこが「受難」を暗示しているのでしょうか。画面中央の幼子イエスを見てみましょう。小鳥を右手に握り、犬から遠ざけようとしていますね。なんだか小鳥の取り合いをしているように、犬に対してちょっと自慢気に掲げているようにも見えます。実はこの姿、ルネサンス時代から聖母子像の姿として描かれており(フェデリコ・バロッチ「猫の聖母」など)、イエスの受難を示すものなのです。この場合、小鳥は「ひわ」または「ごしきひわ」とされ、この「ひわ」が受難を象徴するものなのです。「ひわ」は茨と同じように棘があることから受難の象徴とされるアザミの実を食べることから、またゴルゴタに向かうイエスの茨の冠をついばんだということから、キリスト教では伝統的に「受難」を象徴するものとされています。ごしきひわの口元が赤いのはイエスの血に染まっているからだとされることもあるそうです。ムリーリョのこの作品では、イエスが握る小鳥がひわなのかどうかまでは明確ではないのですが、「小鳥を握り愛玩動物から遠ざける赤子」という姿は、聖母子像における「受難」を暗示していたのですから、この絵画でもその伝統が踏まえられていると考えてもおかしくはないでしょう。ここではイエスを支えるのはヨセフであり、これは、当時のスペインやカトリック圏におけるヨセフ信仰の高まりを示しているのかもしれません。一見、微笑ましい家族の日常を描いた作品にも、「受難」という悲劇の暗示が描かれているのです。そうして見てみると、この後、イエスは「受難」を体験することになるのですから、この家族の日常もとても貴重な一瞬なのだと感じられますよね。絵画の意味を探ることで多くのことを画面から読み取ることができるのですね。ここに絵画を読み解く面白さがあるのではないでしょうか。

『タルクィニオ・メールラの肖像』

さて、受難を暗示する絵画の作例を見てきましたが、これと同じような例が音楽作品にも存在するのです。それが今回ご紹介するタルクィニオ・メールラ(1595-1665)の子守歌による宗教的カンツォネッタ「さあ、お休みの時間よ」です。
 作品に触れる前に、まずはメールラその人について軽く触れておきましょう。メールラは、クレモナを中心に活躍した作曲家、鍵盤奏者、ヴァイオリニストです。ポーランドのワルシャワで当地の王ジグムント3世の宮廷オルガニストに就任し、その後はベルガモでも楽長になっていますが、また故郷クレモナに戻って活躍をつづけました。モンテヴェルディ以後にその革新的な様式を推し進め、バロック時代初期から中期の音楽の発展に大きな貢献を果たしている存在です。音楽における感情表現を重視し、世俗音楽の表現様式を教会音楽に導入していています。また器楽曲にも革新的な作品が多く、「ラ・カラヴァッジャ」という同時代の大画家カラヴァッジョにインスパイアされた作品まで作曲しているのです。カラヴァッジョの絵画のキアロスクーロ(明暗法)のように対比の激しいまさにバロック的な作品を特徴とするメールラの表出力の激しい作風は、数々の先進的技法を用いて、人間の感情を音楽で物語ったモンテヴェルディの正当な後継ではないでしょうか。

『ラメント』

マリアンネ・ベアーテ・キーラント(メゾソプラノ)
オスロ・サークルズ
LAWO LWC1226 輸入盤

 さて、音楽作品に戻りましょう。『さあ、お休みの時間よ』と訳されるタイトルを聞く限り、母親が赤ちゃんに歌う優しげな子守歌想像しますよね。実際にこの作品は、聖母マリアが幼子イエスに歌い聞かせる子守歌の形式を取っています。ですが、音楽を聴いた瞬間、その印象は一変します。AとB♭のなんとも不穏な半音が低音域で執拗に繰り返され、その上では悲しげな旋律が歌われるのです。音の繰り返しは揺りかごを示すものだとは思うのですが、半音の繰り返しだと心がざわつき、全く落ち着かず、とても子供を安心させ、眠りにつかせる子守歌には聞こえません。しかも歌詞も実に直接的にイエスの「受難」を歌っています。私の意訳ですが、一部を抜き出し記してみましょう。

さあ、おねんねの時間ですよ
おねんねしなさい、赤ちゃん、泣かないで
この後の人生ですぐにいやというほど泣くことになるのだから

かわいらしいおめめを閉じて、さあ、普通の赤ちゃんのように
だってすぐに明るい空さえ奪ってしまう闇のヴェールがかけられるのだから

…。身もふたもない歌詞ですよね。
この歌詞は、イエスの「受難」におけるさまざまな事象を予型として語っているものであり、そんな辛いことばかりが待っているのだから、今は泣かずにゆっくり眠ってね、あなたが眠りにつくまでずっと見ているからとマリアの母心を歌っているのです。最後の部分だけ、若干やわらかで優し気な曲調になるのが救いでしょうか。半音の繰り返しによる不穏な空気、その上で歌われるこの運命を思い嘆く、母親の悲痛。子守歌ながらなんとも不穏で悲劇的な曲調はこういう理由があるのです。
 今回ご紹介するCDは、ノルウェーのメゾソプラノ、マリアンネ・ベアーテ・キーラント(ノルウェーの言語の発音に近づけ、シェランと表記されることもあります)による17世紀イタリアの声楽作品集『ラメント』です。ノルウェーを中心に北欧のピリオド楽器奏者たちが2015年に結成した新進気鋭のアンサンブル、オスロ・サークルズとの共演です。モンテヴェルディの「もし苦しみが甘美なものならば」やサンチェスの「聖母の涙(スターバト・マーテル)」、そしてメールラの「さあ、お休みの時間よ」など、感情表現際立つ聖俗まじえた17世紀イタリアの嘆きの歌(ラメント)が、同時代の描写的な器楽作品とともに収録されています。キーラントの歌唱は、余裕があり、落ち着いたものながら、確かな感情表出力があり、聴き手にシンパシーを与えるすばらしいものです。メールラでの歌唱も悲劇性を出しながら、どこかに子を思う優しさを滲ませている繊細な歌唱を聴かせてくれています。オスロ・サークルズによる演奏も見事で、声楽曲では歌をしっかりと支え、器楽曲ではより強い表現を聴かせてくれます。バロックチェロ、ヴィオダ・ダ・ガンバ奏者としてバッハ・コレギウム・ジャパンなどで活躍したミメ・(ヤマヒロ)・ブリンクマンさんが参加していますが、彼女の歌に寄り添った通奏低音はすばらしいものです。

 絵画も音楽もただ鑑賞するだけでは見えてこない、聴こえてこないものが存在しています。今回ご紹介した絵画と音楽作品は、作品を探るということの面白さを示している格好の例ではないでしょうか。ぜひみなさんも好きな作品についてさまざまな側面から探ってみてください。きっと新たな発見があり、よりその作品を好きになることでしょう。

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