必聴傾聴盤紹介~『ヒルデガルト・フォン・ビンゲン:単旋聖歌集』

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ヒルデガルト・フォン・ビンゲン:単旋聖歌集

グレイス・デイヴィッドソン(ソプラノ)
SIGNUM PSIGCD717 輸入盤国内仕様日本語解説付き
録音:2021年3月10~11日 グレイス・デイヴィッドソン宅

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098-1179):
鳩がじっと見つめた
ようこそ、気高き家の少女よ
おお聖霊の火よ
おおエルサレム、黄金の都市よ
おおユーカリウスよ、あなたは喜びに満ちた道を歩いた
おおどこまでも深い緑色の枝が
おお真の都市の聖職者が
おおエクレシアよ
おお枝を束ねた杖と王冠よ
 ハリー・クリストファーズ&ザ・シックスティーンのメンバーとして、そしてソリストとして数多くの共演をし、ジョン・エリオット・ガーディナー、フィリップ・ヘレヴェッヘ、ポール・マクリーシュら古楽の巨匠指揮者たちとも共演を重ねる、今最も注目されるソプラノ歌手グレイス・デイヴィッドソン。彼女の純粋で透明感のある声は、ジャンルを超え、現代に活躍する作曲家をも魅了し、特にポスト・クラシカルのカリスマ作曲家として絶大な人気を誇っているマックス・リヒターは、グレイス・デイヴィッドソンのためにいくつもの作品を書き下ろしているほどなのです。
 SIGNUMレーベルにおけるグレイス・デイヴィッドソンの3枚目のソロ・アルバムとして、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの作品が選ばれました。実は、彼女の2007年にリリースされたソロ・デビュー・アルバム『ア・ポートレート』(METRONOMEレーベル METCD1083現在廃盤)において、1曲目に選んだのがヒルデガルトの作品(「Ave generosa」このアルバムでも2曲目に収録されている)なのです。この中世の幻視者が、彼女にとって最も思い入れのある作曲家の一人であることは疑いないでしょう。ヒルデガルトへの思いはブックレットでもグレイス・デイヴィッドソン自身の言葉で書かれています。
 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(1098~1179)または、ビンゲンのヒルデガルトは、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であり、神秘家、作曲家であり、40歳ごろ幻視体験をし、預言者とみなされました。医学や薬草学の書物を残し、現代でも彼女の書物は研究され続け、人々の生活に生かされているのです。ヒルデガルトは自らの幻視体験を通して、それを詩や音楽で示しました。ヒルデガルトの残した音楽は、古代ローマ以降最初の女性作曲家の作品とされ、そのシンプルながら瞑想性の高い音楽は現代の癒しの音楽としてもグレゴリオ聖歌とともに受け入れられ、人気を博しています。
 ヒルデガルトの作品は、ほとんどが単旋律のシンプルなもので、数多くの古楽演奏家によって録音されていますが、それぞれに楽器を加えたり、声を重ねたりなど工夫を凝らしてアルバムが製作されています。このグレイス・デイヴィッドソンによるアルバムは、彼女の声だけによる実にシンプルな歌唱となっています。冒頭を聴くだけで、その清澄な声に心を奪われることでしょう。ただ女性歌手が和声を持たない単純な旋律を歌っているだけなのに、なぜここまで魅了されるのだろうかと思うこと必至です。グレイス・デイヴィッドソンはラテン語による歌詞も丁寧に発音し、極めて美しくヒルデガルトの音楽と融合させています。録音場所は、日本語訳だと単に「アーティストの家」とだけ訳されていますが、原文ブックレットには「the artist’s home」となっているので、素直に解釈すればグレイス・デイヴィッドソンの自宅での録音でしょう。おそらく自宅のスタジオで、または自宅に機材を持ち込んでのレコーディングだと想像できます。コロナ禍にあって、演奏・録音活動もままならない中での苦肉の策であったのかもしれませんが、彼女の伸びやかで柔らかな歌唱を聴く限り、自宅での録音が良いように作用し、よりリラックスした気張らない親密な歌唱となっているようです。ヒルデガルトの歌を歌うにはかえって効果的だったようにさえ思います。約60分、彼女の歌に魅了され続けるアルバムなのです。
古楽ファンには、このアルバムのプロデューサーが、名合唱団テネブレの指揮者ナイジェル・ショートであるところと、英語による原文解説を、NAXOSに大量の録音を残したルネサンス・ポリフォニーの名合唱団オックスフォード・カメラータ主宰の指揮者ジェレミー・サマリーが書き下ろしているところも注目点でしょう。
なお、日本語の翻訳文では英語の「vision」という単語に「予見」という単語を当てていますが、これは不適当で、ヒルデガルトの場合、日本語では「幻視」が適当でしょう。なぜなら彼女のvisionはまだ起きていないことを予め見て伝える予言者ではなく、神の啓示を視認し、預り伝える預言者なのですから。歌詞の翻訳にも難があるので、注意が必要です。原文ブックレットの歌詞英訳は、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのスペシャリストと言っても過言ではないクリストファー・ペイジの翻訳なので英訳としては最も信頼できるものでしょう。クリストファー・ペイジは、ゴシック・ヴォイセズとともに数多くの歴史的名盤を残したイギリス古楽界の巨匠にして高名な音楽学者で、特にエマ・カークビーを迎えたヒルデガルト・フォン・ビンゲンの作品集『A Feather on the Breath of God 』(HYPERION CDA66039)は世界的なベスト・セラーとなっています。今回、特別の許可をもらって、ペイジの歌詞英訳をこのアルバムのブックレットに掲載しているそうです。歌詞の意味を理解するためには、ぜひこちらを参照していただきたいと思います。
 日本語の翻訳に難はありますが、このアルバムが極めて優れたヒルデガルト・アルバムであり、今後も名盤として語り継がれるであろうことは疑う余地がありません。グレイス・デイヴィッドソンの、そしてヒルデガルト・フォン・ビンゲンの極美の世界にどっぷりと浸かれるこのアルバムは、あなたの癒しの1枚となるかもしれません。ぜひお聴きください!

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