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『ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「不幸が私を襲い」』
ステファン・マクラウド指揮リ・アンジェリ・ジュネーヴ
録音:2023年1月 スイス、ジュネーヴ、サン=ジェルマン教会)
APARTE AP-338 輸入盤
収録情報
ジョスカン・デ・プレ:
- ミサ「Malheur me bat (不幸が私を襲い)」より、キリエ
- Douleur me bat(苦しみが私を襲い)
- ミサ「Malheur me bat (不幸が私を襲い)」より、グローリア
- Nymphes des bois(森のニンフ、泉の女神)~オケゲムの死を悼む挽歌
- ミサ「Malheur me bat (不幸が私を襲い)」より、クレド
- MIserere (主よ、われをあわれみたまえ)
- ミサ「Malheur me bat (不幸が私を襲い)」より、サンクトゥス
- Mille regretz (千々の悲しみ)
- ミサ「Malheur me bat (不幸が私を襲い)」より、アニュス・デイ
- Preter rerum seriem(この世の摂理に超越し)
リ・アンジェリ・ジュネーヴ(声楽アンサンブル)
アレクサンドラ・レヴァンドフスカ、ハナ・ブラシコヴァー(ソプラノ)
サムエル・ボーデン、ウィリアム・ナイト(アルト)
アンドリュー・トータイス、トーマス・ホッブス(テノール)
フレデリク・シオレスマ(バリトン)
ヤロミル・ノセク(バス)
ステファン・マクラウド(バス)
ステファン・マクラウド(指揮)
録音:2023年1月、スイス、ジュネーヴ、サン=ジェルマン教会
CDジャケット:コリン・デ・コーテル「マグダラのマリアの悲しみ1500年頃)」(部分)ブダペスト美術館所蔵
コリン・デ・コーテル(c. 1440–1445 – c. 1522–1532)は、祭壇画を得意とした初期ネーデルラント派の画家。巨匠ロヒール・ファン・デル・ウェイデンとの影響関係も唱えられています。この絵画は、静かに悲しみの涙を流すマグダラのマリアの表情が卓越した表現で描かれています。衣服の美しい表現も見事です。
- スイスのCLAVESレーベルから、バッハの3大宗教曲やモーツァルトやライヒャの協奏曲など注目のアルバムをリリースしているステファン・マクラウドと彼が主宰するグループ、リ・アンジェリ・ジュネーヴが、APARTEレーベルに登場。しかも彼らの録音レパートリーとしては初のルネサンス音楽となるジョスカン・デ・プレのアルバムなのです。ステファン・マクラウドは自身も優れた歌手であり、特にバッハの受難曲のイエス役として、世界的に最高の評価を得る歌手として有名で、どちらかというとバロック音楽の歌手というイメージがありますが、若いころから、パウル・ファン・ネーフェル率いるウェルガス・アンサンブルやフィリップ・ヘレヴェッヘ率いるコレギムウム・ヴォカーレ・ゲントなどの優れた合唱団の一員として活躍しており、マクラウドにとって、ルネサンス期のレパートリーは、常に身近にあったものだったのでしょう。入念な準備と研究を経てから録音に臨むマクラウドにとって、念願となるルネサンス・ポリフォニー・アルバムなのかもしれません。それはコンセプトの明確なこのジョスカン・デ・プレのアルバムの選曲を見るだけで、容易に想像できます。
ジョスカン・デ・プレは言わずと知れたルネサンス音楽の最大の巨匠であり、彼が生み出した数々のミサ曲は「ベートーヴェンの偉大なる交響曲に匹敵する」とされるほど、音楽史上の最重要作品群といっても過言ではありません。このアルバムでも、世俗曲を基にしたミサ「不幸が私を襲い」を中心にプログラムされています。
ジョスカンのミサ曲「不幸が私を襲い」は、15世紀半ばの作者不詳のシャンソンとされる「不幸が私を襲い」のパロディ・ミサとなっています。多声楽曲である原曲の一部を多声のままミサ曲に仕立て直すミサ曲を指します。この「不幸が私を襲い」は有名な多声シャンソンのようで、同じ楽曲をアグリコラやオブレヒトらジョスカンと同時代の作曲家もミサ曲にしています。ただし、原曲が良く分からないという謎が残されているのもミステリアスで興味を引くものです。
ジョスカンのミサ曲「不幸が私を襲い」は、ヴェネツィアの出版業者ペトルッチがまとめ出版したジョスカンのミサ曲集の第2巻(1505年刊)に収録されています。ジョスカン・デ・プレのミサ曲はどれも完成度が高く、傑作ばかりですが、その中でもこのミサ曲の練度は目を見張るものがあります。
マクラウドはジョスカン・デ・プレのアルバムを制作するに当たり、このミステリアスな傑作ミサを中心に添え、そのミサ曲の各楽章の間にジョスカン自身の手による有名な世俗曲と宗教曲を挿入したプログラムを組みました。しかも1曲を除き、「フリギア旋法」(またはホ短調)で書かれた楽曲を集めたという凝りようです。
また歌唱には、基本的に各パート二人の歌手で臨み、均整の取れたアンサンブルを実現。ジョスカンの時代とは異なり、最上声部には女性ソプラノの用いたのは、ジョスカンの楽曲の高音は、現代のカウンターテナーには高すぎるため、そうした高音が用いられた部分において全体のバランスを崩しかねないので、ジョスカンの楽曲の美しいプロモーションを保つため、ということです(ブックレット内の発言を意訳しました)。またブックレットにはレコーディング風景の写真が掲載されていますが、歌手たちが録音マイクを中心に円陣を組むような配置で歌っている様子が写っています。
それにしても、リ・アンジェリ・ジュネーヴのメンバーの豪華なこと!リ・アンジェリ・ジュネーヴのバッハ録音ではすばらしい歌声を聴かせているレヴァンドフスカと、バッハ・コレギウム・ジャパンへの参加で日本でもお馴染みのブラシコヴァーがソプラノを務めるのを筆頭に、サムエル・ボーデン、トーマス・ホッブス、そしてマクラウド自身など現代古楽の第一線で活躍するソリストばかりが参加しています。基本的に各パート二人というバランスは、マクラウドがパウル・ファン・ネーフェルが主宰するウェルガス・アンサンブルで1990年代に歌っていた経験によるようです。これだけの一線級の歌手たちが各声部のバランスを保ち、究極とも言えるバランスでジョスカンの楽曲を歌うのです。その美しさは「天上の響き」と表現できるほどで、冒頭のミサ曲「不幸が私を襲い」のキリエを聴くだけで、ノックアウトされること請け合いです。このメンバーで、ジョスカンのミサ曲だけでなく、「森のニンフ、泉の女神(オケゲムの死を悼む挽歌)」「千々の悲しみ」「ミゼレーレ」といったミサ曲以外のジョスカンの代表的作品を聴くことができるのもうれしいところです。いくら長年一緒に歌ってきたメンバーばかりとは言え、これだけの精度の高さで歌唱をまとめ上げるマクラウドの指揮者としての能力の高さにも驚かされます。
ヨーロッパを中心に、日本でも盛り上がりを見せたジョスカン没後500年のアニバーサリー・イヤー(2021年)は過ぎ去ってしまいましたが、アニバーサリー・イヤーのおかげで、音楽界の「ジョスカン熱」はさらに高まっているのではないでしょうか。その証拠がこのアルバムです。この意外なメンバーが意外なレーベルから発売したすばらしいアルバムは、ジョスカン・デ・プレ録音の代表格の一つとして語られることになるでしょう。アニバーサリー・イヤーを過ぎても世界のジョスカンへの関心が増していきますように!(須田)