CDを聴く CDジャケットを読む~~第3回『フィレンツェのルネサンス』15世紀「花の都」の音楽と絵画~

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第3回『フィレンツェのルネサンス』15世紀「花の都」の音楽と絵画

『フィレンツェのルネサンス』
オルランド・コンソート
HYPERION CDA68349 輸入盤

クラシックCDにはそこに収録されている音楽や演奏のすばらしさはもちろんのこと、CDジャケットを中心としたその装丁も収録されている音楽と関連付ている非常に凝ったアルバムがたくさんあります。この企画では、主に古楽を中心に、一枚のCDを取り上げ、音楽内容とそのCDジャケットを掘り下げてご紹介し、その一枚のCDをとことんまで楽しもうという試みです。第3回は、ルネサンス時代の「花の都」フィレンツェの音楽と芸術作品についてです。

 今回取り上げるのは、現代最高峰のイギリスの男性声楽アンサンブル、オルランド・コンソートによるルネサンス時代のフィレンツェをテーマとしたアルバムです。毎回、凝ったプログラムのアルバムを作り、話題を集めるオルランド・コンソートですが、2022年に発売された「フィレンツェのルネサンス」というアルバムは、これまで以上に凝っていて、原文解説もかなりのボリュームです。今回取り上げるのは、現代最高峰のイギリスの男性声楽アンサンブル、オルランド・コンソートによるルネサンス時代のフィレンツェをテーマとしたアルバムです。毎回、凝ったプログラムのアルバムを作り、話題を集めるオルランド・コンソートですが、2022年に発売された「フィレンツェのルネサンス」というアルバムは、これまで以上に凝っていて、原文解説もかなりのボリュームです。
 このアルバムは、ルネサンス文化の中心地であった都市フィレンツェのルネサンス時代の音楽で構成されています。アルバムは2部に分かれたプログラムで、第1部は、1430年代から1450年代のデュファイとバンショワ、第2部は、1460年代から1490年代のロレンツォ・デ・メディチ、イザークとサヴォナローラというサブタイトルとなっています。ルネサンス時代はフィレンツェの黄金時代だったと言えますが、その社会情勢は目まぐるしい変化を起こしていて、特にメディチ家の栄華の時代と言える最盛期1430-1480年代と、メディチの力が落ち、サヴォナローラが登場した1480年代中盤以降では、かなり街の雰囲気も変化を見せていたようで、その空気は不穏さを増しており、文化にもかなりの影響を与えたようです。
 ジャケットに使用されているボッティチェッリのフレスコ画やフィレンツェのシンボルでもあるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂との関連にも触れながら、原文解説を基に紹介していきます。

『フィレンツェのルネサンス』
オルランド・コンソート
マシュー・ヴェンナー(カウンターテナー)マーク・ドーベル(テノール)
アンガス・スミス(テノール)ドナルド・グレイグ(バリトン)

1430年代−1450年代:ギヨーム・デュファイ&ジル・バンショワ
1. デュファイ:ばらの花が先ごろ/ここは畏れ多い場所
2. デュファイ(?):先ごろ、咲き乱れたばらの花を
3. デュファイ:めでたし、トスカナ人たちの花よ/エトルリアの乙女たち、今あなたたちに/嘘つきな男たち
4. デュファイ:行け、わが心よ
5. バンショワ:行け、わが心よ
6. デュファイ:すばらしき娘たちを生み出すフィレンツェの町は
1460年代−1490年代:ロレンツォ・デ・メディチ、ハインリヒ・イザーク、ジローラモ・サヴォナローラ
7. 作者不詳:今、わたしは修道院を離れ
8. 作者不詳:わたしたちの悪い生活を考えると
9. 作者不詳/イザーク(?):調香師の歌
10. 作者不詳/イザーク(?):ジベットの歌(Zibetto=Civet シベットとはジャコウネコまたはそのの分泌液からできる香水のこと)
11. 作者不詳:/イザーク(?):おお邪まで頑なな心
12. 作者不詳:ようこそ、五月へ
13. イザーク:もっとも偉大な預言者
14. イザーク:女神たちの凱旋
15. イザーク:車輪を回せ、運命よ
16. イザーク:悲しくも、他の人々が逃げ出してしまうものこそ、わたしは
17. イザーク:だれがわたしの頭に水をかけるのか
18. 作者不詳:私はいまはまだその齢ではない
19. 作者不詳:心よ、こんなところで何をしているのか
20. 作者不詳:我らが胸に生き続けますように
21. イザーク:恐れる人々にだれが平安を与えるのか
(曲目の訳は筆者によるものです。)

『デュファイとバンショワの肖像』

 フィレンツェが栄華を誇った1430-1450年代の音楽は、ギョーム・デュファイ(1397-1474)やジル・バンショワ(1400?~1460)といった天才作曲家が「花の都」にふさわしい、華やかな音楽を作り出していました。例えば、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式(1436年)の際に歌われたというデュファイの「バラの花が先ごろ(Nuper rosarum flores)」(トラック1)は、その大聖堂の設計図の比率と同じ比率を用いて作られたという凝った作曲法であるといいます。4声のこの作品は、高音2声部はフィレンツェの美しさを歌い、低音2声部は「Terribilis est locus iste」(なんと畏れ多き場所)というグレゴリオ聖歌を歌います。花の女神フローラの街を意味するフィレンツェやそこから取られた大聖堂の名称(花の聖母マリア大聖堂の意味)、また堂内に飾られていたという黄金の薔薇を示すバラの花が咲き誇っていることと、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が「畏れ多く、畏敬の念を抱かせる」聖堂であることがテキストでも示されているのです。都市の中心となった大聖堂の落成式にふさわしい華やかな内容です。また時の教皇エウゲニウス4世を指す言葉も含まれているので、伝統的な典礼用のテキストではなく、おそらくデュファイ自身がテキストを書いたのだろうとされています。大聖堂の建築比率やそれにかかわる数字と関連性を持たせながらも、シンプルで聴きやすく、かつ天上の美しさを持つこの曲のパフォーマンスは落成式のクライマックスだったのだろうと容易に想像できますね。
 上に掲載した絵画は、デュファイとバンショワを描いたとされる写本の挿絵で、左がデュファイ、右がバンショワだそうです。デュファイの横にはオルガンが置かれていて、バンショワはハープを持っているようです。オルガンは教会で演奏されることが多いことから教会音楽の、ハープは吟遊詩人などの弾き語りや歌の伴奏に使われたことから世俗音楽のイメージを与えています。現代では、ミサやモテットなど教会音楽の作曲家としてのイメージが強いデュファイ、シャンソンなどの世俗音楽の作曲家としてのイメージが強いバンショワですが、この絵が描かれた時からそんな印象だったのかもしれません。

 

『ジョルジョ・ヴァザーリ:ロレンツォ・イル・マニーフィコ(ロレンツォ・デ・メディチの肖像)』ウフィッツィ美術館

 数世紀にわたってフィレンツェで栄華を誇ったメディチ家の人物たちの中でも最も有名なロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)は「ロレンツォ・イル・マニーフィコ」(偉大なるロレンツォという意味。日本語だと豪華王ともされるが、ロレンツォは王ではない)とも呼ばれ、メディチ家の最盛期を築きました。ロレンツォは、文化サークルを主宰し、ボッティチェッリら数多くの芸術家を庇護していましたが、音楽家では、特にインスブルックからやってきたフランドル出身のハインリヒ・イザーク(1450?-1517)を重用して、自らの息子たちの音楽教師としたり、自らの詩に音楽を付けさせたりしていました。このアルバムには、ロレンツォ・デ・メディチの詩に付けられた音楽が数曲(トラック9「調香師の歌」、10「ジャコウネコの歌」)収録されていますが、これらには明確な作曲者の記載がないもののイザークの作曲の可能性が高いといいます。才能ある詩人でもあったロレンツォの韻律を生かした佳品です。またイザークは、ロレンツォの死に際して、ポリツィアーノとともに「だれがわたしの頭に水を注ぐのか」(トラック17)を捧げています。
 掲載した絵画は、ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)が描いたロレンツォ・デ・メディチの肖像画です。ヴァザーリはミケランジェロの弟子のマニエリスムの画家、建築家ですが、今日ではルネサンス時代の芸術家の評伝「画家・彫刻家・建築家列伝」を著したことで有名な存在となっています。ヴァザーリの生まれる前にロレンツォ・デ・メディチはこの世を去っていたことから、ヴァザーリは数あるロレンツォの肖像画からロレンツォの特徴を描いているようです。ロレンツォは存命当時からさまざまな絵画の中に描かれてきました。眉間から鼻筋にかけてが特に特徴的ですので、メディチ家関連の絵画でロレンツォを探してみるのも面白いですよ。

フラ・バルトロメオ:ジローラモ・サヴォナローラの肖像(1498年頃)』(フィレンツェ、サン・マルコ国立美術館)

 ロレンツォの晩年になると、1482年にフィレンツェにやってきたドミニコ会の修道士サヴォナローラが、贅沢品であふれるフィレンツェの堕落やメディチ家の実質的な独裁を激しく糾弾するようになり、メディチ家に不満を持っていたフィレンツェの市民たちもこれに同調するようになっていきました。フィレンツェの空気は不穏なものとなる中、ロレンツォがこの世を去った(1492年)ことを機に、一層サヴォナローラの力が強まり、フランス軍侵攻の責を取る形で、メディチ家はフィレンツェを追放されてしまいます。代わってサヴォナローラがフィレンツェの共和国顧問となり、神権政治を行うことになります。贅沢品や豪奢な絵画などを広場に集めていっせいに焼いてしまったという「虚栄の焼却」(1497年)に象徴されるように、派手な芸術に対して激烈な態度を貫いたサヴォナローラですが、音楽に対しても厳しい態度を取っていたようです。「ポリフォニーを捨て去ろう」という発言を残したサヴォナローラは、教会からポリフォニーやオルガン演奏を排除し、代わりに、シンプルなグレゴリオ聖歌やラウダを広めようとしていました。まるでその後のトリエント公会議(1545-1563年)のようなことが起ころうとしていたのですね。サヴォナローラは、乱痴気騒ぎのお祭りであった謝肉祭の行列を、宗教的な歌(ラウダ=ラテン語で讃美を意味するイタリア語の簡素な宗教歌)を歌う少年たちの行列に変えるなどしていましたが、世俗の旋律を使った宗教的な音楽に関しては積極的に利用していました。謝肉祭のために書かれたサヴォナローラ自身の詩も残されていて、それには世俗の音楽の旋律が付けられ、ラウダとして敬虔な少年たちによって歌われたのです(トラック20)。また「心よ、こんなところでなにをしているのだ」(トラック19)では、自ら作った歌詞の音楽として、「ようこそ、五月へ」(トラック12)の音楽を採用しています。世俗の要素を宗教色で染めようとしていたのかもしれませんね。とにかく芸術に対して、厳しい態度を取り続けたサヴォナローラは、そのあまりの厳格さに市民の支持を失っていきました。サヴォナローラは、教皇庁を厳しく糾弾した結果、1497年には教皇アレクサンドル6世から破門されましたが、それでも糾弾を止めなかったため、市民を扇動する偽預言者として、1498年には異端の罪で捕縛され、拷問の末、自分の預言は神から預かった言葉ではないと告白させられ、処刑されました。その後のフィレンツェは共和制が十数年続くも、1512年にはメディチ家が帰還し、再び政権を握ることになりました。ロレンツォの息子であるジョヴァンニ・デ・メディチは、1513年に教皇レオ10世となり、こうしてメディチ家の栄光はその後2世紀にわたって続くことになったのです。

『サンドロ・ボッティチェッリ:若い婦人に贈り物をするヴィーナスと三美神(1483-1486)』(パリ・ルーヴル美術館所蔵)

 このCDのジャケットには、ボッティチェッリの「若い婦人に贈り物をするヴィーナスと三美神」の一部分が使用されています。ボッティチェッリは、ロレンツォ・デ・メディチの庇護を受け、フィレンツェでさまざまな作品を描いていますが、このフレスコ画(現在はカンヴァスに移されています)は、ロレンツォ・デ・メディチの叔父で、メディチ銀行ローマ支店の支店長ジョヴァンニ・トルナブオーニの別荘であるフィレンツェ近郊のヴィッラ・レンミに飾られていました。ジョヴァンニ・トルナブオーニが息子であるロレンツォ・トルナブオーニとジョヴァンナ・アルピッツィの婚礼にあわせて、ボッティチェッリに依頼したのではないかとされているそうです。このフレスコ画には、かの有名な「春」にも出てくる三美神(魅力・美貌・想像力をそれぞれ象徴する)も登場しています。ヴィーナス、三美神とも、ボッティチェッリ特有の優美な女性像で描かれていますが、焦点が当てられているのは左側に描かれた贈り物を受け取ろうとしている若い婦人のようです。女神たち以上に可憐な姿に描かれていますね。ヴィーナスとこの三美神から贈り物をされるということは、ジョヴァンナに対する最大限の賛美だったに違いありません。ちなみに、ボッティチェッリはロレンツォ・デ・メディチが重用した詩人アンジェロ・ポリツィアーノとも交友関係を結び、有名な「春」や「ヴィーナスの誕生」は、ポリツィアーノの詩が創作源になっていると言われています。このアルバムに収録されている「ようこそ、五月へ」の詩はポリツィアーノで、花が咲き誇り、緑が茂る春の描写があることから、ボッティチェッリの「春」を連想させる詩となっています。

『ルカ・デッラ・ロッビア:クワイヤブックを見て歌う少年たち(1432年頃)』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)

 CDブックレット内に掲載されているサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂内の北東の壁を飾る彫刻です。ルカ・デッラ・ロッビアという後にテラコッタなどの焼き物で名を馳せることになるデッラ・ロッビア一族の彫刻家による作品群です。詩篇150「Laudate Dominium」(主を讃えよ)を歌う少年や楽器を奏でる人物を生き生きと表しています。クワイヤブックと呼ばれる1冊の分厚い楽譜集を皆で見て歌うさま、肩を組んで歌うさまなど、当時の合唱隊の様子がそのまま写されているかのようです。掲載されている以外の部分にもたくさんの彫刻群があり、そこには楽器を演奏する人物が集団で表現されていて、細長いラッパ、リュート、オルガン、タンバリン、ハープを奏でる姿が確認できます。当時使われていた楽器の貴重な図像でしょう。こうした姿は若干の誇張があるとはいえ、当時の教会や聖堂での合唱の様子を知る貴重な作例であると思われます。デュファイの作品もこのように歌われ、演奏されたのかもしれないですね。

『ロレンツォ・デ・メディチ「歌集」の扉絵(1513-1515)』

 やはりCDブックレットに掲載されている図像です。二人の少年と3人の成人が、ロレンツォ・デ・メディチ自身が作曲した「ベッリクオーコリの歌」を歌っているのを聴いているロレンツォ・デ・メディチを描いています。これはロレンツォ・デ・メディチが謝肉祭にあたって創作した「歌集」(Canzone per andare in Maschera per carnesciale)1513-1515の扉絵です。詩人としてもすぐれた才能を発揮したロレンツォ・デ・メディチは自らの詩に、イザークら重用した音楽家たちに依頼して、旋律を付けてもらっていたようです。ロレンツォは自分でもさまざまな楽器を演奏できたそうですから、もしかしたら、自分でも作曲していたかもしれないですね。この挿絵ではロレンツォは歌を聴いているだけですが、謝肉祭では、ロレンツォ自身も音楽家たちに混ざって歌ったり、演奏したりして楽しんだのでしょう。ちなみに「ベッリクオーコリ(Berricuocoli)」とは蜜入りの焼き菓子のことで、謝肉祭で配られたそうです。

『オルランド・コンソート:「フィレンツェのルネサンス」』

  最後に、歌唱について触れておきましょう。オルランド・コンソートの4人の歌手は、どのパートも決して逸脱しない均質な歌唱が徹底されていて、きわめて純粋なハーモニーとして曲を響かせています。伝統的なポリフォニー歌唱の究極の形と言っても過言ではないでしょう。デュファイ、バンショワ、イザークといったルネサンスのポリフォニーの巨匠たちの音楽が最上級の織物のように音楽の綾となって再現されています。冒頭の「バラの花が先ごろ」では、その徹底された統一感が曲の美しさを際立たせ、均質な声にもかかわらず、まさに花のような色彩感を生んでいます。また宗教曲とは異なる雰囲気を持つ「調香師の歌」「ジャコウネコの歌」などの世俗的で軽い作品での軽妙な歌唱も見事です。2000年代に加入した上声二人はまだしも、低音域の二人の歌手アンガス・スミスとドナルド・クレイグは大ベテランと呼んでもおかしくない年齢だと思いますが、こうした高水準の歌唱を維持できること自体が驚異的です。また、音楽学者と共同プロジェクトで、デビュー時から凝った内容のアルバムを作っている点もオルランド・コンソートの特長で、このアルバムでも、15世紀フィレンツェの音楽を時代別に分けたプログラムを採用し、そのために多くの曲で失われたパートを復元しています。デュファイやイザークの名作をすばらしい歌唱で聴けるだけでなく、ポリツィアーノやロレンツォ・デ・メディチ、サヴォナローラの詩が音楽となって聴けることは現代のルネサンス文化の愛好家たちにとって福音でしょう。このCDは、ルネサンス時代に、文化の中心都市として栄華を誇った「花の都」フィレンツェのルネサンス音楽を通して、当時のフィレンツェの空気を感じることのできる格好の1枚なのです。


参考
『サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の写真』

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、1296年から140年をかけて完成したフィレンツェという都市を象徴する大聖堂。二重構造を持つ巨大なドームが特徴で、設計したのは天才建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)。このドームが閉じられたことにより、一応の完成となり、1436年に時の教皇エウゲニウス4世によって大聖堂の献堂式が執り行われました。その際の音楽がデュファイの「バラの花が先ごろ」でした。

『ボッティチェッリ:キリストの哀悼(1490-1492)』(ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク)

ボッティチェッリは晩年にサヴォナローラに傾倒し、世俗的で甘美な作風を捨て、「虚栄の焼却」の際に、数多くの自作を焼いてしまったという逸話も残っています。ボッティチェッリの晩年の宗教的な作品には、中世的な作風に回帰するような強い宗教性が見られるのです。この「キリストの哀悼」は、まさにボッティチェッリのそうした晩年の作風を代表するもので、1480年以前の合理的な遠近法や華やかな色彩は消え、中世絵画をなぞったような生硬で形式的な構図と深く宗教的な瞑想性を感じさせる作品となっています。

『フィリッポ・ドルチャーティ:サヴォナローラの処刑(1498年)』(サン・マルコ美術館)

アレクサンデル6世の命令で、異端の罪で逮捕され、処刑されたサヴォナローラ。その処刑はある意味で一大イベントであったようです。処刑の様子を描いた絵画が数多く描かれているからです。これはフィリッポ・ドルチャーティなる画家による1498年の絵画。まさに処刑のあった年の絵画ですので、かなり実際の様子に近いのではないでしょうか。処刑の様子を見に、数多くの人が広場に集まっている様子が描かれていますね。サヴォナローラは弟子二人と共に三人で処刑されました。ここには画面右手奥には、後ろ手に縛られ跪き、最後の祈りを捧げる三人の姿、中央には処刑人によって処刑台へと連れていかれる三人の姿、画面左上には火刑にあっている三人の姿が描かれていますが、この三人はすべてサヴォナローラとその弟子二人です。これは異時同図法と呼ばれるもので、同じ画面内に異なる時間の出来事を描く手法です。中国や日本の絵巻によく使われる手法ですが、西洋では主に中世からルネサンス時代初期に使われていました。

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