『四季』で日本でもおなじみの作曲家アントニオ・ヴィヴァルディ。その人気はクラシックの作曲家の中でも高く、毎年、数多くの録音が発売となっています。続々と発売されるヴィヴァルディ録音の中から、スタッフの一推しディスクをご紹介していきます。「赤毛の司祭」と呼ばれたヴィヴァルディの作品の演奏の最前線となる録音の数々にぜひご注目ください!
NAIVEが長年に渡って断続的に進められているヴィヴァルディ・エディションは、ヴィヴァルディの全作品を、旬のアーティストで演奏・録音し、リリースするという一大企画。最近の歩みは実にゆっくりで、リリースも定期的ではないですが、注目の内容が多いこともまた事実。そして今回のリリースは、あのファビオ・ビオンディによる新録音となりました!ファビオ・ビオンディといえば、NAIVE/OPUS111レーベルで数々の鮮烈なヴィヴァルディ録音を発表し、クラシック界に衝撃を与えてきた存在で、かつてはNAIVEのヴィヴァルディ・エディションにも加わっていましたが、別のレーベルからの発売が続いていて、これが約3年ぶり、協奏曲録音に関していえば、5年ぶりの登場となります。まさにヴィヴァルディ・エディションへの帰還と言える内容でしょう(ただし録音は2020年だったようですので、発売が遅れたなんらかの理由があったのかもしれません)。
さて今回のアルバムのテーマは「アンナ・マリアに捧ぐ」となっています。このアンナ・マリアは、ヴィヴァルディが音楽教師、指揮者として務めていたヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院のヴァイオリン奏者で、孤児だった幼少期よりピエタ慈善院で育ち、ヴィヴァルディから音楽教育を受ける中で、その才能を開花させた女性でした。ヴィヴァルディは、卓越した技術を持っていたアンナ・マリアのためにいくつもの協奏曲を書いたと言われています。このCDには、そうしたアンナ・マリアのために書かれた協奏曲の中から主に1710~1720年代にかけて作曲された作品が集められています。いずれも長調の協奏曲ですが、アンナ・マリアの高い技術が前提とされている技巧的な作品となっています。
ビオンディは自ら独奏を取り、手兵エウローパ・ガランテを率いて録音に臨んでいます。弦楽器の編成は、ビオンディも含めて、4-3-2-2-1、そして通奏低音にアーチリュートとチェンバロが加わっています。ビオンディは、高い技術と独特の音色を駆使し、アンナ・マリアのための作品を生き生きと演奏しています。合奏との一体感も爽快です。またアルバムの最後には、RV179aの第2楽章ラルゴの別ヴァージョンが収録されています。この楽章には、おそらくアンナ・マリア自身の手によって書かれたであろう豊かな装飾音が残されており、それを基にした演奏とのことです。その華麗な装飾からはアンナ・マリアの高い技術が伝わってきます。
演奏だけでなく、楽譜へのこだわりも示したビオンディの新しいヴィヴァルディ演奏にご期待ください!
17世紀ヴェネツィアにあったアカデミー「アカデミア・デリ・インコーニティ(名もなき者たちによるアカデミー)」に由来する名称を持つピリオド楽器アンサンブル、リ・インコーニティ。バーゼル・スコラ・カントルムのヴァイオリン教授であるアマンディーヌ・ベイエ率いるこのグループは、現在ハルモニア・ムンディから続々とCDをリリースし、注目を集めています。ヴェネツィアのアカデミーから名称を取っただけあって、ヴィヴァルディ演奏を得意とし、ハルモニア・ムンディでもすでに2枚のヴィヴァルディ・アルバムをリリースしています。当レーベルでの3枚目のアルバムとなる2021年録音のこのCDは「さかさまの世界」という不思議なタイトルが付いています。これは最後に収録されたRV572協奏曲ヘ長調「プロテウス、あるいは逆さまの世界」からとられているのです。この曲名のタイトルには説明を要するでしょう。プロテウスとはギリシャ神話に登場するポセイドンの子とされる海の神。ナイル川の河口のパロス島でアザラシの世話をしているそうです。また予言の力を持つとされていますが、その力を行使することを良しとせず、プロテウスの予言を聴こうとする者は彼を捕まえなくてはならないのですが、プロテウスはあらゆるものに変身する能力も持っているため、捕まえるのが困難なのだそうです。この変身能力を持つという特徴から、現代では姿をさまざまに変化させる腸内細菌の名前にも取り入れられているほどなのです。ヴィヴァルディの「プロテウス」の名を持つ協奏曲もこの変身能力を名前の由来としています。まずこの協奏曲は、「さかさまの世界」というタイトルが付けられていました(RV544)。おそらくオットボーニ枢機卿の楽団のために書かれたというこの協奏曲は、ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲の形式を取っていたのですが、ヴァイオリンとチェロのソロ・パートを入れ替えることができるという稀有な特徴を持っていたのです。オットボーニの楽団には、「ヴァイオリン壊し」「18世紀のパガニーニ」の異名を持つ超絶技巧のヴァイオリニスト、ロカテッリや、ボッケリーニの師として有名なチェロのヴィルトゥオーゾ、コスタンツィがいました。そうした凄腕たちがいたからこそ、こんな突飛な作品が書かれたのでしょう。このRV544はよほどヴィヴァルディのお気に入りだったのか、2本のフルート、2本のオーボエ、チェンバロを加えた編成に作り直されたRV572として生まれ変わっているのです。ちなみに、この協奏曲は「プロメテウス」と誤表記されることがあり、かつてはその名でCDが発売されてしまうことさえありましたが、プロメテウスは人類に火を与え、そのせいでゼウスから永遠の責め苦を負わされることになった神様である。プロテウスとは全く違う神様であるので注意が必要です。
その他の収録曲も、大変面白い楽曲が並びます。例えば、冒頭の協奏曲ニ長調RV562「聖ロレンツォの祝日のために」は勇壮なホルン、オーボエ、ティンパニまで加わる大規模な協奏曲。超絶技巧ヴァイオリンの超絶技巧も聴きものです。また同じ副題の付いたRV556はクラリネットを使用した最初期の作品として知られています。
ヴィヴァルディというとヴァイオリンというイメージが強いですが、ここに収録された数々の協奏曲を聴けば、さまざまな楽器を協奏曲に持ち込んでいたことが分かり、その多様性には目を見張るものがあると知ることができるでしょう。その多様性を、アマンディーヌ・ベイエ率いるリ・インコーニティの凄腕の面々がすばらしい演奏で教えてくれます。ハイポジションや重音を含む超絶技巧を弾きこなすベイエの圧倒的なテクニック、ホルンやティンパニの勇壮な響き、クラリネットが加わることによる響きの先進性、全体的なアーティキュレーションの徹底など、リ・インコーニティの演奏はヴィヴァルディの先鋭性をとらえ、現代の聴き手が聴いても新鮮な驚きを提供してくれるほど生き生きとしたものなのです。まさに作曲・初演当時の聴衆の驚きを体験できる格好の一枚だと言えるでしょう。
数々のヴィヴァルディ録音で、クラシック界に衝撃を与えてきたアレッサンドリーニ&コンチェルト・イタリアーノによるヴィヴァルディの「調和の霊感」全曲。なんと、協奏曲集『調和の霊感』作品3の全曲に、この曲集からバッハが編曲を行った6曲まで全曲収めたという画期的な企画!考えてみれば、ヴィヴァルディの『調和の霊感』は傑作だけに、古楽演奏家としては中途半端な態度で臨むことはできないでしょう。加えて、バッハ編曲によるチェンバロ独奏3曲、オルガン独奏3曲、そして4台のチェンバロのための協奏曲を録音する必要となるこの企画、アレッサンドリーニのとてつもないヴァイタリティには脱帽してしまいます。
さて、それでも企画がどんなに良くても演奏が良くなければ伝わるものも伝わりません。果たしてこのアルバムはと言えば、何といってもまず本編である『調和の霊感』の演奏が抜群。ソリストやアンサンブル・リーダーとしても各々活躍する4人のヴァイオリニストが、ヴィヴィッドな即興を加え、演奏に推進力を与えているのです。緩徐楽章でのカンタービレの歌わせ方も極めて美しく、意外に軽視されがちな、ヴィヴァルディの遅い楽章での美を明確に提示してくれています。アレッサンドリーニ率いる通奏低音陣の支えも見事で、全体としてヴィヴァルディの音楽を、まるで今作曲された音楽のように再現しています。『調和の霊感』の録音は、モダン・ピリオド含めてかなりの数あるますが、その中でも屈指の名演と言い切れるすばらしい演奏です。
またバッハの編曲作品は、対比して聴きやすいように、ヴィヴァルディの原曲のすぐ後に聴けるようにプログラムされています。アレッサンドリーニはここにも工夫を加えていて、よりオーセンティックな演奏にするためには、ヴィヴァルディとバッハとで活躍場所が違うため、作品によってピッチや調律の違いを付ける必要があるのですが、この録音では、あえてアルバム全体でピッチや音程を統一することによりヴィヴァルディの作品をどのようにバッハが編曲したかが聴いて分かりやすいようにしているのです。聴き手である私たちは、この場合、オーセンティックとは言えないその姿勢を気にするのではなく、そうしたアレッサンドリーニの試みをそのまま受け入れ楽しむのが正解でしょう。実際に、ヴィヴァルディの原曲の後にバッハの編曲を聴けば、その音楽性の違いが分かるので、作品は実に面白く響きます。あまりにも「バッハらしい」対位法的編曲がはっきりと聴き取れるのです。もちろんバッハ編曲作品の演奏も卓越したもの。チェンバロ編曲の3曲はアレッサンドリーニ自身が弾き、4台のチェンバロのための協奏曲では、アレッサンドリーニを含むイタリアの名手4人の共演による演奏です。ヴィヴァルディの作品を自分の作品へと昇華するバッハの編曲の手腕の見事さが伝わる鮮烈な演奏となっています。そして、オルガン編曲ではさらにすごい演奏家が!歴史的オルガン演奏の名手でもあるアレッサンドリーニは、ここではあえて、同じイタリアの達人ロレンツォ・ギエルミにオルガン独奏を依頼しているのです。録音の時間差(『調和の霊感』全曲の約1年後にオルガン独奏編曲が録音されています)から推測されるアレッサンドリーニの意図や思いの推測が国内仕様盤に収録された独自の日本語解説に記されていますが、ギエルミの演奏を聴けば、その意図がどうであろうと、ギエルミを独奏者に選択したことの成果が分かることでしょう。ヴィヴァルディの楽譜に書かれた音符を右手・左手・足の鍵盤に割り振り、さらにバッハ独自の対位法的付加がなされているその複雑な作品を、いとも自然に弾きこなしているのですから。ここにはヴィヴァルディでありながら、完全にバッハでもある音楽が存在しているのです。ギエルミの技巧と解釈に喝采を叫ばずにはいられません。
ヴィヴァルディとバッハの音楽をすばらしい演奏で同時に楽しめるだけでなく、ヴィヴァルディの傑作からバッハが何を受け取り、どのように自分の作品に生かしたかが明確になる画期的なこのアルバムをぜひとも多くの方に聴いていただきたいものです。
エンリコ・オノフリの「四季」と言えば、すぐに思い出されるのが1993年に録音されたイル・ジャルディーノ・アルモニコの録音(TELDEC WPCS-16101)。この録音は、「四季」の自然に描写を過剰なまでに表現した、いわば表現主義の極致とも言えるもので、発表当時、クラシック界にとてつもない衝撃を与えました。その後、数多くの「四季」録音が出てきましたが、今現在でさえ、これほどの過激な表現が聴ける演奏はほとんどありません。この録音において、圧倒的な技巧でソロ・ヴァイオリンを担当したヴァイオリニストこそ、26歳の若きエンリコ・オノフリだったのです。私の頭には、イル・ジャルディーノ・アルモニコによるこの過激な路線のイメージが付きまとい、満を持して録音したエンリコ・オノフリ主導の新しい『四季』はこの路線のさらなる極みになるだろうと勝手に思い込んでいました。結果からみれば、この思い込みは全くの見当違いだったのです。オノフリの新しい「四季」は、なんと「自然」なことでしょうか!
若干の言い訳を許していただきたいのですが、オノフリはかつて、モーツァルトの交響曲第40番の演奏(NQCL3001)で、過剰なまでの推進力を持つ録音を提示し、この曲から極めてデモーニッシュな側面を抉り出していました。この賛否両論を生んだすさまじい解釈を知っていたので、どうしてもオノフリの『四季』を待ちわびていた一人としては、この路線を想像し、期待していたのです。しかし少し考えてみれば、イル・ジャルディーノ・アルモニコでの解釈の中心はその主宰者ジョヴァンニ・アントニーニであったことはすぐに理解できます。そして、なんといってもその録音から30年が経過しようとしています。オノフリの『四季』演奏に関するスタイルが大きく変わっていたとしても全く不思議ではありません。アップデートできていなかったのは私の頭の方だったのです。
前置きが長くなりましたが、アルバムに紹介に移りましょう。このアルバムは、ヴィヴァルディの『四季』をメインとなる最後に配置し、その前に、ヴィヴァルディの先駆たちによる「自然」描写をテーマと器楽作品が置かれています。冒頭のマリーニは、ヴァイオリン技法の進歩に大きく貢献した作曲家で、この作品『去り行け 苦しみの心よ』は一見したところ、自然描写と関係ないようですが、その実、自然を歌った既存のカンツォネッタと同じ旋律を使っているのです。ちなみにこの旋律はマントヴァ舞曲として知られるとのことで、なんとあのスメタナの『モルダウ』の旋律の元ネタとなっているという驚きの旋律です。実際聴けば納得できるでしょう。続くジャヌカンの「鳥の歌」は声楽アンサンブルによる多声シャンソンなのですが、ここでは2つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのために編曲されています。通常、器楽による声楽作品の編曲の場合、かなり大胆な装飾が加えられるのですが、ここではオノフリと仲間たちはそれをあえて最小限にとどめ、原曲が持つさまざまな含みを持つ<鳥の鳴き声>を見事に描写しています。まさに原曲の歌詞を歌うかの如く奏される大変面白い編曲なのです。その後にもメールラ、ウッチェッリーニ、パシーノといった作曲家の、鳥の鳴き声などの自然描写を主とした個性的な作品が並べられ、いよいよ『四季』の演奏となります。最初に書いた通り、オノフリの解釈は極めて<自然>。この解釈に至ったのは、どうやら彼の住環境の変化(解説の中で述べられています)が大きいようです。オノフリは「都会生活に居場所のなさを感じ、自然に近いところで生きようと心に決め」たそうです。こうして自然とともに生きることで、オノフリは「四季」の新しい解釈にたどり着いたのでしょう。冒頭から不自然に過剰なところなど一つもない自然さなのです。自然の美しさを歌い、驚異に感嘆し、動物たちの嘶きもそのまま再現しています。演奏に当たっては、1725年にアムステルダムで出版されたル・セーヌによる初版を採用し、いくつもの演奏指示はル・セーヌ版に忠実とのこと。楽器編成もル・セーヌ版に従い、コントラバスは除かれ、ヴァイオリンも2本ずつ。しかもオルガンが通奏低音楽器として指定されているので、チェンバロの導入は「秋」のみ。テオルボは当時のヴェネツィアで広く使われ、ヴィヴァルディの音楽に欠かせないとの理由で楽譜の指示はありませんが加えられています。装飾もヴィヴァルディの装飾様式を研究し続けたオノフリの面目躍如となっています。この極めてオーセンティックな姿勢の上で、オノフリとその仲間たちが自由に想像の羽を広げ、ヴィヴァルディが描いた「自然」を描写していくのです。聴き終えた後に、まさに広大で美しい「自然」が眼前に現れるかのような演奏と言えるでしょう。
プログラム、演奏、そしてオノフリ自身による解説を含めた全体通して個人的に感じたことは、エンリコ・オノフリというアーティストは「ルネサンス人」であるということ。自然に理想を見て、理想の中に自然を見る。この姿勢が貫かれた演奏解釈は、ルネサンスに開花し、その後、何世紀にも渡ってヨーロッパの知識人に影響を与え続けたユマニスム(人文主義と訳される)なのではないでしょうか。これはエンリコ・オノフリという一人の稀代のアーティストが、壊れゆく自然と対峙することになった現代の人類に提示した「自然讃歌」なのだと私は考えています。
このアルバムを聴くにあたって、どうしても『四季』をまず聴いてみたいという欲求にかられると思われます。私自身がなによりその欲求にかられ、結局「四季」から聴いてしまいました。これは私の言い訳のしようのない「過ち」です。これからこのアルバムを聴かれる方には、ぜひ、あせらず、アルバムの最初から聴かれることを強く推奨します。オノフリの真意はアルバム全体を通して聴いてこそ、理解できるからです。そして演奏を聴く前でも、聴きながらでも、聴いた後でも、解説を熟読しましょう。ブックレットも含めたアルバム全体でオノフリとイマジナリウムの<作品>なのです。これこそ、CDを所有する価値となることでしょう。ぜひとも現代社会に対して、オノフリが提示した「自然」を体験しましょう!(須田)
エンリコ・オノフリのアルバム好評発売中!
・『J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番、パルティータ第2番、第3番』UZCL-1030
・『アルカンジェロ・コレッリ ヴァイオリンと、ヴィオローネまたはチェンバロのためのソナタ 作品5 Vol.1』 UZCL-1027
・『アルカンジェロ・コレッリ ヴァイオリンと、ヴィオローネまたはチェンバロのためのソナタ 作品5 Vol.2』UZCL-1028
・『悪魔のトリル~タルティーニ、ヴェラチーニ、モッシ、ボンポルティ ヴァイオリン・ソナタ集』 UZCL-1019
・『愛をこめて〜エンリコ・オノフリwithチパンゴ・コンソート~Live in Japan スペシャル・ゲスト 森 麻季』 UZCL-1016
・『バロック・ヴァイオリンの奥義』 UZCL-1003